水より烏龍茶

日々思いついたことや考えたことを書き散らす

雑記①

陰キャですが愛に溢れてしまったので、愛の話をさせていただきたいと思います。
 
ちなみに愛の話をしようとしたときに「あいにく」という言葉がスコンと頭にぶつかってきて「愛」「憎」じゃん!とひとりで盛り上がってましたが語源としては「あやにく」であり、口語にすると「ああ憎らしい」くらいの意味だそうです。ただ、憎らしいって感情もこれまたフクザツで(ニュアンスと風合いの問題ですが)「憎い」よりも「憎らしい」の方がより人間っぽい感情だなと思うんですよね、全力でマイナスじゃないというか。そういう意味では「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉があるように「愛らしいこと」と「憎らしい」ことはセットなんですよね。生憎。
 
言葉遊びの導入はこれくらいにしておいて、愛の話をします。こういうのやりたかっただけです。
 
陰キャ非モテオタクですがこう見えてワタクシ、愛というものについてちょっとしたこだわりがあります。それは単なるないものねだりなのかなんなのか、分からないんですが。「好き」よりも「愛する」ことの方が好きなんです。このセンテンスすごい手のひら返しですね。オタクなので手首は360度稼動しがち。
 
先日、声優の沼倉愛美さんがご結婚され、TwitterのTLもお祝いムード。ここ最近うちのTLでは珍しい光景じゃありません。僕個人として「結婚」というプロセスが分かりやすい人間社会における幸せのパッケージ化であるという穿った見方があったとしてもそれは素晴らしいことだと思うし、揶揄する気は全くありません。幸福は人それぞれというスタンスはありますが、「結婚」という決断まで踏み込める関係性というのは人生でなかなか無いことだし、それを祝福することは自然なことだと思います。
その時は別に特に引っかからなかったんです。有名な方だし最初はおおっというインパクトはあってもそれだけ。ここ最近声優さんの結婚報告続くな、という程度の出来事でしたしそのまま埋没していく出来事だったはずなんです。
 
鷲崎健藤田茜のグレパラジオ第33回オープニングトークにて、この件について取り上げられていたんですがその中で鷲崎さんが「皆好きだと思うし何割かは『え~!』ってなってると思う。(中略)悲しいなあ、悔しいなあ、も含めてそれはおめでとうの感情だと僕はいつも思ってるので。大人になっておめでとうって思わなくていいよって。自棄酒飲みながら『かあ~!ぬーさぁーん!』って言うのもおめでとうの形のひとつなので」と仰られていたんです。これめっちゃいい話だなって思って軽くTwitterではふれたんですけど。めっちゃいい話なんですよ。
今回ですが声優の結婚に対して祝福するか、罵詈雑言を吐くかもしくは悲しむかといったファンのあるべき姿について話をしたいわけではなく、人に対しての「好き」は何時の間に「愛」になっているのかという話をしたいんです。ここをちょっと忘れないでくださいね、よろしくお願いしますよ。
 
「好き」の話をちょっとだけさせてください。
「好き」という言葉はめちゃくちゃ意味も多く、含まれるニュアンスも絶妙です。数々の人類がこの言葉によって一喜一憂し、時には破滅し、時には涙を飲んだ事でしょう。
人にプラスの感情を寄せる言葉というのは本当に多彩な意味合いを背負わされがちです。でもここで「愛する」はその限りではありません。なぜかというと「愛」の形は人それぞれであっても、それは「愛する」という言葉には背負わされないからです。これはちょっと感覚的な話なので分かってもらえない人もいると思いますが「好き」という言葉には「好き」という言葉の歴史により拡張された意味合いを全て含んでいます。しかし「愛する」は「愛」という言葉による一定性があるんです。言葉に対してのニュアンスではありません、その言葉が使われるシチュエーションや背景・人間関係を基に人の「愛すること」という動名詞を修飾しているんですね。
 
人間の感情は本当に複雑怪奇、導線は訳が分からない、分かっているようでまったく分かってないなんてケースは砂糖を吐くような、もしくは青臭くて食えるようなもんじゃない恋バナ聞けばいくらでも出てきます。人間を人間たらしめるのは「理性」ですが「感情」は人間特有のものではないのにも関わらず、人間らしさを担保する大きな要素です。
 
僕には尊敬する後輩がいまして。彼女の面白いところは「女性の言動や行動が感情にされやすいことを自覚した上で理屈をこねる」ところです。女性観については別のトピックなので内容はトヤカク言わないで欲しいですが、ここで言いたいことは「感情」という感覚は突然天から降ってくるものではなく間違いなく張り巡らされた自分の中のどこかからはじき出されたロジックであるということです。
 
ちょっと考えれば当たり前じゃない?ってくらい当然のように聞こえますけどこれ当たり前すぎて別次元に富んじゃってるんですよね。感情はあくまで「感情」という別次元からもたらされる不確定な要素のように。
とはいえ、全ての感情はロジックで説明するには限界があります。何故なら感情はグラデーションであり、その明度・彩度に対応した言葉が全て揃っていないからです。なので我々は新しい感情はもともとある言葉にカテゴライズするなり新しい言葉を作り出すしかありません。感情の海の全容を把握することには限界が在ります。また、それを知ること自体が正しいかというとそれはまた別の話で、大抵の人間にとっては世の中絶対に「知らないほうが有利」なんです。知っているということは弱点を増やすということでもあるので。
 
本筋に戻りましょう。「好き」や「愛する」は人間のフクザツな、しかし絶対に筋が通っている感情によって引き起こされます。そしてその道筋は絶対一本道じゃない。先に挙げた鷲崎さんのトークなんかそうですが、相反する行動や言動もそれは愛であったりするんです。愛に限らないんですが僕は「許容する」ことが関係性の進展に大きく関与する要素だと思っています。許してあげる、肯定してあげる、そしてそんな自分をちょっと良いね、と思えることが単なる好き嫌いを越えた感情になっていくと思うんですね。元々僕が好きなジャンルである異種族と人間の歩み寄り、これなんかまんまそういうことなので。愛なんですよ。これは「好き」なだけじゃ、なかなかできないことだと思います。

 

 

ゆたかな感情にもっと耳を傾けるなり、寄り添ってあげることは本当に大事で。ジャンルは多少違えどそういうアンテナを如何に張っていくか、受信できるかということが人間として生きるうえでより重要だと思うし、そういう人たちと仲良くなって楽しくやって生きたいなあと思います。

「愛だな~」とボヤくことが増えたんですが、これ実際言葉としての重みは軽くなっちゃってて微妙だな、とも思うんですが逆に言えば自分が見えてる範囲とか、感じてるものの解像度がちょっと良くなったのかなあとも感じていて。そういう意味では言葉を新しく覚えて形作ってあげること、他の言葉でたとえること、当てはめてあげることでより自分の感情や想いや、愛情について考えたり理解出来る人が増えてみんな今よりもっと良い人類であることができたらいいなと思います。以上。